11/4(水)全体ゼミ〔講義〕授業観察について
- j20195547m
- 2020年11月16日
- 読了時間: 3分
更新日:2021年2月24日

「授業観察」をテーマに大島先生から講義をしていただいた。
授業観察とは何だろうか。
授業を参観者としてみるとき、何をどう見るのか。
教師の知識領域は、教授・教材・学習者の3つに分かれるという。
授業を見る人は、たいていその3種類のいずれかを見ている。
そして、見る人によって、見ているものがちがう。
言葉を変えると、みんな見えていないものがある。
さらに言えば、
「見たいようにしか見ていない」。
ところで授業を見る視点には、
「定点参観」と「自由参観」がある。
「定点参観」者は、対象を決めて参観するため、授業後の話し合いで具体的な情報をもとにした、実のある話し合いができる傾向にある。
「自由参観」者は、対象を決めずに参観するため、授業後の話し合いでは、具体性に欠け、安易な合意をし合って話が終わりがちである。
言われてみれば納得である。
また授業後の語りに現れる「学習者」については、
「観察学習者」と「非観察学習者」がある。
「観察学習者」は、教室内で実際に観察した学習者をさす。
「非観察学習者」は、自分のこれまでの経験や想像においての学習者をさす。
「定点参観」者は、授業後の検討会で、自分が実際に観察した学習者(=観察学習者)についての様子を語る傾向があり、
「自由参観」者は、経験や想像においての学習者(=非観察学習者)について語る傾向がある。
では、目指すべき授業観察の道筋は何だろう?
やはり、授業中の学習者の様子を具体的に観察し、そこから出発して、教授方法なり、教材なりの関わりを吟味していくべきであろう。
教師の仕事とは、教える、と同時に、学習者の学びが成り立つようにすること、と考えるからだ。
自分を顧みると、何十回もの授業を参観してきたが、明確な目的を持つことなく授業を見ることが少なからずあったように思う。
よくわからないまま結局やっていたことは、授業を眺め、あいまいな自分の感覚による驚きや感心、違和感を指導案の片隅にメモり、授業後に感想として伝えてきたこと。つまり、自由参観で、かつ非観察学習者を想定した発言が多かったであろうと感じる。
研究による検証結果をもとにした内容には、とても説得力があった。自分の中に張り付いていた、もやもやとした塊が一つ、すぅーと溶けていくのを感じた。
「授業を見る」ことは「学習者を見ること」と言ってよいのかもしれない。
しかしここで大切なのは、
「自分の枠組をつねに見直し、外に開いて問い続けること」
(re-reflection)
「学習者のすがたから、教授の是非を問う」ことを軸足としながらも、
つねに、状況や場面に応じて、その都度、自分の構えを見直し続ける。
このことこそが、授業を見る目、ひいては授業を作るセンスにつながっていくのだろう。
かの齋藤喜博先生は、
「教育とか授業とかにおいては、『見える』ということは、ある意味では、『すべてだ』といってもよいくらいである」
と述べているそうである。
我々が目指すべきものは、
明日から使える安易なhow toよりも、
「見えるとは何か」を問い続ける姿勢のようなもの、
あるいは
「ものごとの捉え方」を追究する意志
のようなものなのだろう。
(むらさん)
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